ぐるぐるまわる

 毎日ツイッターでつぶやいてます。

 それがもう、つぶやきすぎなんじゃないかってくらいつぶやいていて、こやつが巷で噂のツイッター依存症か、哀れなり、とフォロワーの皆さんの少なからずに思われているのはほぼ確実だなーと考えつつ、ふと、20人くらいしかフォローしていない方のタイムラインにわたしのアイコンが上から下までずらずらと並んでいるところを想像して心苦しくなったりなどして、でも止められない、まったくなんであろうかこの傍若無人さは、と自分で思いつつ、ってこの、まるで自分がどう見られているかなんてわたし分かってるわよ、な自意識過剰な文章もそうとう気持ち悪いですね。わたしの中の他者から見たわたし、という泥人形の姿にこのわたしはいつまで拘泥するのか、無意味だと分かっていながら止められず、やれやれな感じ。まったくもう。もしかしてこの自意識過剰が依存症の源であろうか、と自己分析をしてみてもこれはただループをさらにぐるりともう一回転させたに過ぎないわけで……。

 雀の涙という言葉がしっくりくる感じの報酬で、web記事執筆のお仕事をやりながらツイッターをやっていると、これは笑い話ではなく、仕事のあいまにツイッターをやるというよりも、ツイッターのあいまに仕事をするという感じになってしまって、いつの間にか呟きっぱなしで納期前には死ぬ思いをすることになるのです。読書の方も今月はまだ光文社から出た新訳の『嵐が丘』上下を読んだだけだったし、これはどうにかせねばならぬと思ったしだい。どうにかするぞ!

 それはともかく、こないだちょっと、あ、やばい、と思ったことがありました。『離人』というのでしょうか、自分の中の状態を精神医学の用語を使って表現するということは、個人的にはちょっと苦手なのですが、一言で言うならそれで、もっと詳しく説明するのならば、自分がこれまで喋ったこと書いたこと為したことの全てが、まるでまったく人ごとのように感じられて、今のこのわたしはからっぽである、という感じですね。あのときのわたしが名前を問われていたら、答えられていたかどうかけっこうあやしいものです。思春期あたりからこうした離脱感には悩まされてきたんですが、これがまた結構怖い。もしかしてこれは自意識がぐるぐるループして頭の中のどこかが過熱状態になる中で突然逆の方向に針が大きく振れる現象なのかしら、と思うのですが、なっている最中はそんな理屈はどうでもよく、とにかく本当に怖い。これが長時間続く場合はけっこう危険で何が起こるか自分でもちょっとわからない感じです、はい。

 そういうことがあって、このぐるぐるループをどうしたらいいものでしょう、とこれもまたわたしの中の他者に聞いてみたところ、十中八九、「あなたの中の他者ではない、ほんものの他者と濃密な関係を作ること、つまり。リアル恋人とかリアル友達を作ったらいいよ!」と答えるのでした。


 ほんものの他者!!肉体を持った他者!!


 もっと!をつけたいくらいだよ。
 目を合わせて喋ること、喋る時に最後の方まで声量を保って言い切ること、震えやゆらぎをなくすこと、触れるときにためらいをなくすこと、全部苦手なのです。肉体を持った他者、というのは、わたしにとってあまりにも手ごたえがありすぎる存在で、こうしなければならぬという何か約束事があるならまだしも、さあ言葉なり行動なりであなた意思表示をしてごらん、と言われてもどうしたらいいのか正直なところ分からなくって、そしてそんなわたしは今そこにいる相手にとってはまるでヘドロの入ったズタ袋みたいにとってもイライラさせられる存在だ、ということも分かっていて...いかんいかん、またぐるぐる回りだした。

 しかしこれは何とも安直なアドバイスじゃないの。濃密な関係って何よ。エロいこと抜きでさー。まあ抜かなくたっていいんだけどさ。
 わたしはこれまで友達を作ってきたし恋人だってぜんぜんいなかったわけじゃなかった、実は、他の人の話を聞くにつけむしろたくさんの人間と知り合ってきた方なのではないかと思いはじめてきたところなんですけど、肉体を持った他者と本当に通じ合えたな、と思えたことは正直に言ってごく限られた時間に過ぎないのでした。一筋ピカッと閃光が走るような本当に短い時間です。こういうことを言うと今仲のよい、あるいはよかった人たちに対して失礼に当たるのでしょうか。たぶんそういうわけでもなく人は概ねこのような孤独を多かれ少なかれ抱えて生きているのではないか、そして一瞬のピカッ、とはそのお互いの孤独をありありと感じたときに生まれるのかなー、なんて思ったりするんです。この人はわたしと同じだ怖くない、ってね。そういう瞬間の積み重ねがもしかしたらわたしをわたしに引き戻してくれるのではないか、なんて思うのは少し甘え過ぎか。こうしてまた、ぐるぐるループは続くのです。


 うん、ちょっとおかしいかな自分。誰か要約しろよこの記事を。

にんじんの色

 魑魅魍魎うずまくといったらおかしいけれど、とにかくそう言っても差し支えがないような東京という街で、毎朝、人間をひんぱんにすりつぶすことで有名なオレンジ色の走る鉄の箱にぎちぎちに詰め込まれながら、会社に行ってはモニターとにらめっこをするということをやめて、実家に戻ってきたわたしは、厨房で、お客さんに出す料理の仕込みをしたり、従業員のためのカレーを作ったり、ということをやりだしたのだけれど、にんじんの皮をむいて細かく刻んで、両手で抱えきれないほどの大きさの、底の深い鍋に張った水の中に落としていくと、その色がとてもきれいで鮮やかであることに気付き、しばし見入っていると、その色は同時に懐かしい色でもあり、ほら、このにんじんの色は何の色なのだろう、と考え込んでいると、それは算数の時間によく使ったのだけれど最後はどこに仕舞ったのかついに分からないおはじきであったり、ランドセルの横につけてこれもいつしかどこかへ消えていたキィホルダーであったり、もういまは引っ越してしまった近所のヒロミちゃんがいつも着ていた服の色であったり、表面にブツブツがあって体にぶつかるとたいへん痛いバスケットボールであったり、転校生の持っていた縦笛の袋であったり(私たちのは青だった)、実にいろいろな記憶を運んできて、子供のころの不思議に全能な感じまで少し甦ってきて、少し涙ぐましい気持ちになってくるのだけれど、この色の懐かしさというものは、よくよく見てみると大根にもこんにゃくにも里芋にもあって、それぞれの色とおさない頃に触れた様々のものを照合していくうちに、ふとめまいがして、いつのまにか自分が、あの罪のない、力のない、いっぱいの愛情を身にまとう、保護されるべき、なんら批難されることのない、蝶のような、子どもになってしまったような気がして、それならそれでこの幻覚が醒めなければよいのに、と思うのだけれども、銀色の大きな冷蔵庫に反射された自分の姿を見たところやはり私はそれとわかる決して美しいとはいえない大人であり、ひどく悲しくなってよくよく目を凝らして見ると、冷蔵庫には、はるか未来の、みにくい、死にゆく私がうつっていた、というわけではなく、やはり、平凡な顔立ちの大人のままで、空想にうんざりした私は包丁を持ち、また皮をむいたにんじんを切っていく。 そうして私はしばし時間について考えて、ぶるりと震えた。

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ずいぶん前のmixi日記を改変の上、転載しました。

どん詰まり感、夏

たとえば、池袋のサンシャイン通りで、いや、そこは梅田だって、下北沢だって、難波だって京橋だって、新宿歌舞伎町だって、どこだっていいのだけれど——しこたま飲んでしこたま歌って果てはうつらうつらしてとなりの人の二の腕に顔をもたせっちゃったりなんかした後に、あるいは、とことん喋り倒してほとんど口喧嘩みたいになった末に、疲れた笑みを漏らして、まいっか、うちらさっきまで何話してたんやろ忘れてしもたわ、あはは、あはは、と何かの中毒患者みたいにゆるんだ後に、蛍のひかりを尻目に、というか尻耳に、堅いアスファルトの上に降り立ち、そこで浴びるしらじらとした光、聞こえるカラスの声は、この世界の生きとし生けるもの全ては敗者である、と告げているようで、それはそれはとてもせつない体験なのだけれど、夏ときいてわたしが思い出すのは、なぜかあのせつないどん詰まり感であるのだ。

つまりわたしはどれだけ頑張ってもどこにも行けない。
このわたしがいま歩んでいる道はどことも交わらずいつか途絶えるまでどこに辿り着くこともなく進んでいくという、考えてみればけっこう当たり前な、そのことを確認するのは、いつだって夏のような気がする。別に悲観なんかしていない。これは悲観とか楽観とかそういうのとはまた別の次元にあるもので、基本的にはかなりどうしようもない憂鬱なことではあるけれど、考えようによっては救いにもなる気づき。

あなたとわたしは沢山の言葉を交わす、けれど、わたしの言葉があなたにどう届いたのかわたしには確認する術が永遠にない、あなたの言葉がわたしにどう届いたのかあなたに伝えることは永遠に不可能だ、そして、わたしはわたしたちの間にある宇宙一個分の隔たりにとても苛立つ。
あなたとわたしは互いの身体を点検しあい、ぶつけあう、わたしにはあなたの身体の中で「わたし」が燃えていることを知るけれど、それはわたしの持ち物とは別の「わたし」だということも同時に悟る。

わたしにはアルコールによる頭のしびれ、怒りの演技、踊り、痛み、束縛、別れ、それらのうちのどれか、もしくはいくつか、もしくはすべて、が必要だった、どうしても。
やがて眠りがやってくる。長い長い眠り。

あたしたちだけの王国に性別はない

はーい、どうも、久しぶりです。
昨日はこれ書きながらお酒飲んでたら、書き終わるより酔っぱらう方が早くて、今日、仕切り直しです。なんでかしらん途中まで書いてたのが消えてたんで、最初からということになってしまいました。お酒飲みながら長文書くなってことですよね、や、予想以上に長い文章になったっていうのもあるんですが。わたしは多少の酔いなら文章を書くスピードは早くなるし冴えることもあるんです、酔拳みたいに。でも、当然のことながらこの技は時間経過に弱いわけで.....残り400字向きですね....ゲフ

あーあたまいたい。いたーいたーいたーいやー。
あたまいたいので前置き抜きで。

ええっとですなー。
村田沙耶香さんの『御伽の部屋』という小説を先日読みました。
これ、「あたし」という若い女性を主人公にした一人称小説なのですが、少女時代の回想シーンで女装少年が出てきます。といっても、この女装少年、きょうび萌え系漫画で見るような洗練された「男の娘」というのとは違うようで、わたしなんかが読むと、「んぐ」となるような描写が...ようはかなり気持ち悪く描かれておるわけですわ...。

「あたしは正男お姉ちゃんの腕や肘に生えた黒くて太い体毛と、よく動く筋肉を眺めている」
「ゴムでよく伸びるようにできた淡い色彩のワンピースが、逞しい男の肉体に押し広げられてしまっていた」
→これとかヒドいね...絵が想像できる(^-^;)

まだ声変わり前だからちゃんとすれば多少アレでも何とかなるんじゃないのかしらんとも思うんだけれど、そうか、もともとガッチリ体型なのだね。

どうやらこの正男お姉さんは女性への興味から女装するというのでもなく、当然ナルシシズムだけのために女装するというのでもなく、本当は自分は女子だと信じている、つまり、GIDっぽいかんじ、と言っていいと思うんだけれども...それを表に出せないんですよね。で、正男お姉さんは自分の部屋で「あたし」に対してだけそれを見せる。「あたし」と正男お姉さんは姉妹ごっこのようなことをやるわけです。最終的には正男お姉さんはトランスを、まあ挫折するということになって、それ以降、「あたし」との縁は切れます。これが回想シーン。

で、その十年以上たったあとで、「あたし」はまた密室の中での奇妙な関係を、ひょんなことから知り合った男性と結びます。今度は何かっていうとお世話プレイ...この男性はセックスはしてこないのですね、でも、お世話をしてくれる、パンツも履かせてくれる、こっちが『死んでやるっ!』って言ったら(当然死ぬ気はない)、優しく慰めてくれる。
この男性、ちょっとおかしいようにも思えますが、んーまあ、語り手が作者に成り代わって設定をちょっと強調しすぎるところ(どうもこの説明調がこの作者の欠点であるようにわたしには見える....んだけど)を割り引いて考えれば、現実に存在しうるキャラクターだと思います。21世紀っぽいっすね。超絶草食系男子?

こういう密室の中で「あたしたちだけの王国」を作る風な小説は、特に現代の純文学女性作家によく見られるのですが、(小川洋子とか、川上未映子の『ヘヴン』なんかもそうかもしれませんね)多くの場合、この王国は最終的には崩壊します。堅固だと思われていた土の城が、いつの間にか、どこかから小さな穴があいてやがてそこからバラバラに互解してしまうように。この小説も例外ではありません。なぜバラバラになってしまうのか?その辺りはわたしにいくつか思い当たりがありますが、それはまた今度書こうかしら、ちょっとテーマが広がりすぎだわ。

とにかく、こういった「あたしたちだけの王国」を作ることで彼女らは何をしているか、というと、様々な社会の縛り、中でも多くの場合ジェンダーの縛りを相対化しようとしているのです。この『御伽の部屋』では、もう攻撃対象はジェンダー一本、性別を徹底的に無力化しようと試みています。そのためには密室が必要なのです。そう、密室なら何したっていいんです。どのように愛し合おうが自由なのです。男と女が逆転したっていいし、コスプレしたっていいし、蹴り入れたっていい。お互いがそれで同意をしているならば。そしてそういう特殊な世界は、性別を無効化する。この小説の中で、「あたし」が男性の友人とセックスをしそうになってしまうシーンがあります。健康的で、いかにも「普通な」男性です。「あたし」がその男性に性器を挿入されそうになったとき、「この男とやったらあたしは必ず妊娠してしまうような気がする」と思い込むのは何とも示唆的。「あたし」は強制的に女にされてしまう、そして絶え間ない吐き気が「あたし」を襲うことになります。

確かに、女性である「あたし」が、男性に子どものように甘えてお世話をしてもらう、という構図は、通常の男女関係の延長または誇張化であるようにも見えるところもあります。しかしこの読み方は、「あたし」が介護の本を買い込み、「いずれ老人になったあの人を今度はわたしが徹底的に介護してあげるんだ」と妄想するシーンで排除される。つまりこの関係は状況によっては逆転可能であることが示されるわけです。ま、ちょっとこのシーン、唐突なような気もするんですけどね...^^;

性別の無い「あたしたちだけの王国」に向かって彼女を走らせるのはもちろん女であることを押し付けられることの違和感なわけですが、これまでの他の似たような小説と違っているのは、男性との関係が崩壊した後のラストです。「ああ、あたしたちの世界は終わってしまったんだわ...」と感傷には浸る、なんて情けないことにはなりません。「あたし」は彼の服を着て「僕」になるのです。「あたしたちだけの王国」は、「僕の王国」となり、そしてそれで外の世界に飛び出していく。たぶん、十年前にはこういう小説はなかったと思います。くたばれ女々しい敗北主義、ですよね。
村田さん、確か『ギンイロノウタ』でもラストで攻撃に転じるのではなかったかしら。ちょうアグレッシヴ。いまひとつ不器用だと思うけど。

ところで、「あたし」に「王国」を作ることを教えてくれたのが、あの回想の中での女装少年だったわけですが、彼女がもし萌え系男の娘だったらどうなっていたでしょう。たぶん「王国」にはなっていなかったと思います。女の子はかくあるべし、という外部のジェンダー観が入ってきちゃうから。正男お姉ちゃんは、アイタタ系だったからこそ、「あたし」と共犯者になり、別れたあとも強く印象を残し、後々まで影響を及ぼすことになったのです。これは「心が美しければ外見なんて関係ないっ」式の決まり文句とはまったく関係がありません。「あたしたちだけの王国」は弱いもの同士、社会的な序列から排除されたもの同士で作られるものなのです。男性との「王国」が崩壊した原因のひとつは、「あたし」が男性の大学に忍び込み、そこで今まで見てきたのとはぜんぜん違う、いたって普通の男子大学生の姿を見たことでした。

授乳 (講談社文庫)

授乳 (講談社文庫)

夢の時間

わたしはときたまエロい夢を見る、のだが、実際のところそこには性器もなければそもそもはっきりとした映像もなく、現実と同じように服を着て寝ている最中で、危うげでぞわぞわして困惑してしまうのだけれど、身体の中身がこの皮膚の穴という穴から溶け出していってしまうような、気持ち悪い気持ちよさというか、そういう触感のようなものがあるだけで、これはよく考えるとあの空を飛ぶというあられもない解放感と不安がないまぜになった夢にも似ているような気がする。

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ところで、金井美恵子の『夢の時間』という小説がわたしは大好きで、その文庫本で85Pという絶妙な長さもさることながら、言葉がとても美しいのと、何より十回以上読んでいるのに小説の中で起こっていることの論理的なつながりというか、ようするに脈絡がほとんどわからないというのがよいですね。途中で出てくる絵描きが主人公アイのことを何でか知らん知っていてそこでアイは「はっ、そうだわ、あの人を探してここに来たんだわ(偶然来た場所なのに!)」と旅の目的を思い出す、みたいな、何でお前そんなこと知ってんねーん、何でお前今ごろになって思い出すねーん、みたいな。たぶんそういう風に書かれた小説なんでしょう。夢の時間はDreamy TimeではなくてTime In a Dream なのね。鏡市、とか、鏡パレスホテルとかいう地名が出てくるのは、『鏡の国のアリス』のアレだよーということか。でもそういうことはどうでもよくて描かれてる世界が何だかとてもいいのさとにかくね。

さて、古今東西、夢について語った人はたくさんいるのだけれども、夢は果たして我々の実生活にどんな影響を及ぼしているか!とか、夢は我々の実生活で起こることを何らかの形で予言しているのか!という問題にさしあたりわたしは興味がなくて、夢も実生活も実はたいして変わりゃしねんでねえ?という感じの夢との付き合い方と言うか向き合い方が好きです。だってどっちも脳が見てるイリュージョン、そりゃ、「現実には『他者』がいるではないか!イリュージョンなんぞではない!」なんて言い方もあるのだろうけれど、そりゃあね、その『他者』とやらもわたしの勝手な思い込みのフィルターを通した存在というか、わたしの幻想の息で膨らませたダッチワイフだったりするわけで、だからこそ「あなたは私の幻を愛したの〜♪」みたいな唄も存在するのよ、お兄さん。悲しいね。で、もっと深い意味の他者っていうのは、きっと自分以外の人間の肉体を含めた自然のことなんだろうね。でもそれは夢の中にもあるし。だいたい夢を見ているのか作り出しているのか、とにかくこの夢の当事者であるわたしの肉体も立派な自然だわ、そしてそのことをわたしたちは薄々知ったり、決定的に知ったりするのだよね。もっとも決定的に知る暇はないかもしれないけれど。


そんなことをずーっと考えつつ、はー、人生って屁だなー、幻だなー、夢だなー、と思うわけで、何だかとっても困難であったことも、嫌だと思ったことも、逆に、素晴らしいなあとか、楽しみだなあ、と思ったことも、それこそ今回の記事の冒頭に触れたような鬼のような解放感と不安がないまぜになったあれやこれやも、何だかんだで通り過ぎて、結局はそれ以上でも以下でもない現在のこのわたしに収まっているわけで、その現在のわたしはぶっとくてたくましいキュウリを味噌につけてポリポリとかじっているわけです、ああ。でもこれすっごく美味しいの、まぢまぢ。

あ、何か脈絡のない文章になっちゃったなー、まあいいか。

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

はじまりのはじまりにたちどまり

さて、はてな開設です。
こういうなんていうのか、日記をアップするというのか、そういう形式のいわゆるブログ的なWebスペースを最後に借りたのは、実に、えーとかれこれ4年前とか5年前とか、そういうレベルの過去のことで、よしブログしよう!ブログしよう!ブログしよう!ブログしよう!と意気込んでこまごまとした設定をしたあとに、いざ「記事を書く」という文字をクリックしてみたならば、本文を書くべき空欄が、さあ書いてみんしゃい、と言わんばかりにわたしのiMacの画面のど真ん中にでんと居座るので、そういえばわたしは何を書きたかったんであろうか、もしかしたら違う?(何が?)と頭が真っ白になってしまうていたらくなのでした。こういうこと、いままで何度も経験したような気がしますね。恋をしよう!恋をしよう!恋をしよう!と思いはするもののいざそこにいる具体的な他人たちを前にして何もできない、みたいな。

それはともかく、なぜブログしよう!ブログしよう!ブログしよう!と意気込んでみることになったかというと、Twitterとかなんかさいきんびみょーにつかれたんでただたんにひきこもりたくなっただけですよー、というたあいもない理由がまずひとつ。数秒ほどで、長くとも数分ほどで思いついたにすぎない自分の発した言葉がすぐさまコミュニケーションの空間すなわち修羅場に吸収されるっていうことは、気づかないうちにけっこう削られるものだよねー、だねー、なんか逃げ道つくんないとねー、と、わたしの脳内の小人たちがさわざわと呟きだしたのでした。はい、ここまでブログタイトルと今回の日記のタイトルの説明。説明はいつも蛇足と知りながらもしてしまうのだわ、まったくこれはよくない癖。そんなわけでいきなり修羅場に放流させるのは如何なものか的な日記なり散文なりをうpしようかと思います。創作は...うーん未定。
それともうひとつ、ここのところ本を読む時間とか映画を観る時間ががくんと少なくなって少なくなった上にそういうものについてゆっくり考える時間もがくんと減ってしまってこれはちょっと修正せなあかんな、ということで、そういうものについて書くスペースをと思ったのでした。それでああ...早速今日読んだ本とか漫画について書こうと思ったのだけれど、ここまで書いて疲れてしまったのでおひらき。いやでも長い文章書くの気持ちいい。楽しい。ひとりとかクローズな空間ってそれなりにいいものですね。ひきこもり万歳ですとも、ええ。