日記(1)わたしの位置

 ××回目の誕生日を迎えた。
 これをきっかけにふたたび文章を書きはじめよう。というわけで、このページを開いてみた――と、書き出したのは実は二日前のことで、わたしはそこから先がずっと続けられずにいた。
 これはなかなかつらいことだ。以前ならわけなくできていたはずのことができない。しかしここで引き下がってはいよいよわたしは自分から言葉を繋いでいく能力が喪われてしまったことを認めることになる。そこで、わたしは考えた。なぜ書けなくなったかということについて書いてみよう。これはほぼ空っぽのマヨネーズのチューブをぐるぐる巻いたり、ねじったりするのに似た実に惨めな作業だけれど、とにかくそれでマヨネーズが下品な破裂音ともに出てくればサラダは皿に盛れる。もっともそれを食べさせられる方はたまったものではない……いやはや、この比喩も救いようもなく惨めだ。
 昔、お水の仕事をしていたときに、水割りを作っているタイミングで先輩のホステスに「ねえ、面白いことしゃべって?」という無茶ぶりをされたことがあるけれど、――もちろんそれは本気のイジメなどではなくネタとしてのイジリであってこのやり取りを見てお客さんが笑うわけだが――この「面白いことしゃべって?」という言葉ほど人に口をつぐませるものはない。現実にはわたしは「イジメ、かっこわるい!」などとずいぶん昔のCMの真似をしつつメタに逃れる切り返しをして笑いをとろうとしたわけだけれど、これが許されるのはその上に乗っかるべき情報と文脈があるからで、全くの白紙ののっぺらぼうのところから、「ねえ面白いことしゃべって?」と言われた日にはもはやお手上げである。そこで最初の話に戻るけれども、二日前のわたしはまさにそういう状態だった。
 そこから考えるとツイッターというのは何とも快適な空間であって、上に乗っかるべきネタはタイムライン上にあふれている。この世界では誰に返答するか明示せずに誰かのつぶやきに反応するつぶやきをエアリプと呼ぶが、おそらくタイムライン上の近況報告や身辺雑記以外の多くのつぶやきは本人がそのつもりがなくても多かれ少なかれエアリプの要素を持っているものと思われる。エアリプの相手は他のプレーヤーであったり、ボットによる自動ツイートだったり、ニュースであったりする。もちろんツイッターの外にある誰かのリアルな声であったり、紙の上に印字された文章であったりもするだろう。そして場合によっては自分の過去のつぶやきだったりする。個人の内面や魂から湧き出るという、何やら素朴で神秘的な言葉の捉え方に対してわたしは極めて懐疑的だ。わたしの紡ぎだす言葉は結局のところ、自分自身も含めた誰かの言葉に対するリプライというかたち以外では存在し得ないのではないか?
 だとすれば、わたしの言葉はこの延々と連なる巨大なリプライ宇宙のネットワークの1ユニットを担っているだけで、誰かに実用的なメッセージを伝える以外に、新たにそれを紡ぐ意味などどこにもありはしないのか?そうではないのか。もしくは無意味であっても紡がざるを得ないのか。それを考えるということと新たに何かを書くことはもはや不可分と思われる。だからそこを考えよう。
 とにかくサラダは皿に盛れたわけである。不格好の極みだけれども。