かなしみは友だち

 目を閉じて、じぶんはとくべつに悲惨でかわいそうな存在だと思うと、なぜか慰められ癒されるような気がしていた。悲しみは乳色の湯のようにまだ小さかったわたしの震える身体をあたためた。だけどわかっていた。それはただ優しいだけではなく、わたしを甘やかせ、堕落させ、淫させるものでもあるということを。
 じじつこの悪癖は、理不尽に立ち向かう勇気や、現状を変える行動、じぶんの意志を他者にはっきりと示す声などをわたしから奪っていった。その後遺症はそれから二十年以上経ったいまでも残っている。
 またそれはわたしをあやしく閉じた世界に引き込んだ。やがてわたしはとくにかなしい目にあわなくても、ただじぶんがかなしい目にあうという妄想をするだけで、乳色のあたたかい湯に浸ることができるようになった。自制することはできなかった。漫画で残酷なシーンがあればすぐにじぶんを重ねた。あわれな登場人物に共感しさらには同化した。そういった営みが性的な色彩を帯びだしたのはいつ頃からだっただろう。ただひとつ確実にいえるのは、そのときはまだじぶんの身体に割り当てられた性的な役割をほぼ知らなかったということ。ずっとあとに、ミシマユキオの小説の中で、聖セバスチャンの殉教図を見て性的な興奮を覚えるという一節を目にすることになった。そのときにようやく、じぶんの妄想のタイプがオリジナルではないことを知った。
 いずれにせよ、悲しみはわたしのずっと昔からの友だちだった。優しくて、悪くて、淫らで、時と場所をわきまえないで。両親は忙しかったのでわたしの相手はあまりできなかった。だからわたしは心置きなくわたしの中の鏡張りの部屋の中で「かれ」と長いあいだ喋ることができた。結果として、土手をジャンプで飛び越えたり、はやりものを手に入れたのを自慢したりすることのない、かといって心の中に鬱屈とした野望を秘めているというわけでもない、何をしてもぼんやりとした表情を見せるだけの発育不全の子どもができ上がった。ときどきへたくそで意味のない絵や文章を書いては、すぐに破り捨てた。まだ現実の絵や文学にろくに触れたことのない子どもにとってじぶんで絵や詩のようなものを書くということはとてもわいせつなことだ。わたしのやることなすことのすべてはこの肉体の外にある現実を一ミクロンも動かさなかった。

★★

 だけど、大人になったらそれは許されないのだった。あたりまえだ。
 パソコンの画面の上の数字を増やすこと、パンを膨らませること、テーブルを素早く綺麗にすること、果物を実らせること、人間をあちらからこちらへ移動させること、工場のラインの上のものを組み立ててベルトコンベアの上にまた戻すこと。何かを動かし、じぶんの力で元のもの、元の状態に変化をもたらさなければ生きていくことは難しい。この世界にどんな種類の革命が起きてもたぶんそれは変わらない。
 ドライバーがわたしの身体を依頼主のもとへと運んでいく。
「かれ」はいまでもわたしの友だちだった。