夢の時間

わたしはときたまエロい夢を見る、のだが、実際のところそこには性器もなければそもそもはっきりとした映像もなく、現実と同じように服を着て寝ている最中で、危うげでぞわぞわして困惑してしまうのだけれど、身体の中身がこの皮膚の穴という穴から溶け出していってしまうような、気持ち悪い気持ちよさというか、そういう触感のようなものがあるだけで、これはよく考えるとあの空を飛ぶというあられもない解放感と不安がないまぜになった夢にも似ているような気がする。

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ところで、金井美恵子の『夢の時間』という小説がわたしは大好きで、その文庫本で85Pという絶妙な長さもさることながら、言葉がとても美しいのと、何より十回以上読んでいるのに小説の中で起こっていることの論理的なつながりというか、ようするに脈絡がほとんどわからないというのがよいですね。途中で出てくる絵描きが主人公アイのことを何でか知らん知っていてそこでアイは「はっ、そうだわ、あの人を探してここに来たんだわ(偶然来た場所なのに!)」と旅の目的を思い出す、みたいな、何でお前そんなこと知ってんねーん、何でお前今ごろになって思い出すねーん、みたいな。たぶんそういう風に書かれた小説なんでしょう。夢の時間はDreamy TimeではなくてTime In a Dream なのね。鏡市、とか、鏡パレスホテルとかいう地名が出てくるのは、『鏡の国のアリス』のアレだよーということか。でもそういうことはどうでもよくて描かれてる世界が何だかとてもいいのさとにかくね。

さて、古今東西、夢について語った人はたくさんいるのだけれども、夢は果たして我々の実生活にどんな影響を及ぼしているか!とか、夢は我々の実生活で起こることを何らかの形で予言しているのか!という問題にさしあたりわたしは興味がなくて、夢も実生活も実はたいして変わりゃしねんでねえ?という感じの夢との付き合い方と言うか向き合い方が好きです。だってどっちも脳が見てるイリュージョン、そりゃ、「現実には『他者』がいるではないか!イリュージョンなんぞではない!」なんて言い方もあるのだろうけれど、そりゃあね、その『他者』とやらもわたしの勝手な思い込みのフィルターを通した存在というか、わたしの幻想の息で膨らませたダッチワイフだったりするわけで、だからこそ「あなたは私の幻を愛したの〜♪」みたいな唄も存在するのよ、お兄さん。悲しいね。で、もっと深い意味の他者っていうのは、きっと自分以外の人間の肉体を含めた自然のことなんだろうね。でもそれは夢の中にもあるし。だいたい夢を見ているのか作り出しているのか、とにかくこの夢の当事者であるわたしの肉体も立派な自然だわ、そしてそのことをわたしたちは薄々知ったり、決定的に知ったりするのだよね。もっとも決定的に知る暇はないかもしれないけれど。


そんなことをずーっと考えつつ、はー、人生って屁だなー、幻だなー、夢だなー、と思うわけで、何だかとっても困難であったことも、嫌だと思ったことも、逆に、素晴らしいなあとか、楽しみだなあ、と思ったことも、それこそ今回の記事の冒頭に触れたような鬼のような解放感と不安がないまぜになったあれやこれやも、何だかんだで通り過ぎて、結局はそれ以上でも以下でもない現在のこのわたしに収まっているわけで、その現在のわたしはぶっとくてたくましいキュウリを味噌につけてポリポリとかじっているわけです、ああ。でもこれすっごく美味しいの、まぢまぢ。

あ、何か脈絡のない文章になっちゃったなー、まあいいか。

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

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