にんじんの色

 魑魅魍魎うずまくといったらおかしいけれど、とにかくそう言っても差し支えがないような東京という街で、毎朝、人間をひんぱんにすりつぶすことで有名なオレンジ色の走る鉄の箱にぎちぎちに詰め込まれながら、会社に行ってはモニターとにらめっこをするということをやめて、実家に戻ってきたわたしは、厨房で、お客さんに出す料理の仕込みをしたり、従業員のためのカレーを作ったり、ということをやりだしたのだけれど、にんじんの皮をむいて細かく刻んで、両手で抱えきれないほどの大きさの、底の深い鍋に張った水の中に落としていくと、その色がとてもきれいで鮮やかであることに気付き、しばし見入っていると、その色は同時に懐かしい色でもあり、ほら、このにんじんの色は何の色なのだろう、と考え込んでいると、それは算数の時間によく使ったのだけれど最後はどこに仕舞ったのかついに分からないおはじきであったり、ランドセルの横につけてこれもいつしかどこかへ消えていたキィホルダーであったり、もういまは引っ越してしまった近所のヒロミちゃんがいつも着ていた服の色であったり、表面にブツブツがあって体にぶつかるとたいへん痛いバスケットボールであったり、転校生の持っていた縦笛の袋であったり(私たちのは青だった)、実にいろいろな記憶を運んできて、子供のころの不思議に全能な感じまで少し甦ってきて、少し涙ぐましい気持ちになってくるのだけれど、この色の懐かしさというものは、よくよく見てみると大根にもこんにゃくにも里芋にもあって、それぞれの色とおさない頃に触れた様々のものを照合していくうちに、ふとめまいがして、いつのまにか自分が、あの罪のない、力のない、いっぱいの愛情を身にまとう、保護されるべき、なんら批難されることのない、蝶のような、子どもになってしまったような気がして、それならそれでこの幻覚が醒めなければよいのに、と思うのだけれども、銀色の大きな冷蔵庫に反射された自分の姿を見たところやはり私はそれとわかる決して美しいとはいえない大人であり、ひどく悲しくなってよくよく目を凝らして見ると、冷蔵庫には、はるか未来の、みにくい、死にゆく私がうつっていた、というわけではなく、やはり、平凡な顔立ちの大人のままで、空想にうんざりした私は包丁を持ち、また皮をむいたにんじんを切っていく。 そうして私はしばし時間について考えて、ぶるりと震えた。

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ずいぶん前のmixi日記を改変の上、転載しました。