どん詰まり感、夏

たとえば、池袋のサンシャイン通りで、いや、そこは梅田だって、下北沢だって、難波だって京橋だって、新宿歌舞伎町だって、どこだっていいのだけれど——しこたま飲んでしこたま歌って果てはうつらうつらしてとなりの人の二の腕に顔をもたせっちゃったりなんかした後に、あるいは、とことん喋り倒してほとんど口喧嘩みたいになった末に、疲れた笑みを漏らして、まいっか、うちらさっきまで何話してたんやろ忘れてしもたわ、あはは、あはは、と何かの中毒患者みたいにゆるんだ後に、蛍のひかりを尻目に、というか尻耳に、堅いアスファルトの上に降り立ち、そこで浴びるしらじらとした光、聞こえるカラスの声は、この世界の生きとし生けるもの全ては敗者である、と告げているようで、それはそれはとてもせつない体験なのだけれど、夏ときいてわたしが思い出すのは、なぜかあのせつないどん詰まり感であるのだ。

つまりわたしはどれだけ頑張ってもどこにも行けない。
このわたしがいま歩んでいる道はどことも交わらずいつか途絶えるまでどこに辿り着くこともなく進んでいくという、考えてみればけっこう当たり前な、そのことを確認するのは、いつだって夏のような気がする。別に悲観なんかしていない。これは悲観とか楽観とかそういうのとはまた別の次元にあるもので、基本的にはかなりどうしようもない憂鬱なことではあるけれど、考えようによっては救いにもなる気づき。

あなたとわたしは沢山の言葉を交わす、けれど、わたしの言葉があなたにどう届いたのかわたしには確認する術が永遠にない、あなたの言葉がわたしにどう届いたのかあなたに伝えることは永遠に不可能だ、そして、わたしはわたしたちの間にある宇宙一個分の隔たりにとても苛立つ。
あなたとわたしは互いの身体を点検しあい、ぶつけあう、わたしにはあなたの身体の中で「わたし」が燃えていることを知るけれど、それはわたしの持ち物とは別の「わたし」だということも同時に悟る。

わたしにはアルコールによる頭のしびれ、怒りの演技、踊り、痛み、束縛、別れ、それらのうちのどれか、もしくはいくつか、もしくはすべて、が必要だった、どうしても。
やがて眠りがやってくる。長い長い眠り。