昔書いたの(掌編

「時計のない部屋」

 目を覚ます。それはあまりにも鮮やかな、目覚め。眠たい目をこすって、などという曖昧な目覚めではなくて、起きた瞬間にすべてが清明になっている、完璧な目覚め。もしかしたら、それは目覚めとは言わないかもしれない。いわば第二の誕生?
「おはよう」とあなたはいう。
 わたしも「おはよう」という。
「お腹、すいた?」
「すいてない」
「僕も同じ」
 この部屋には食べ物らしきものは何もないのだから、お腹がすいていたとしても、何も作れやしない。
 わたしたちは一糸まとわぬ姿で真っ白なシーツの上に横たわっている。ここはどうやら病室らしい。ただしひとり分の。真っ白な壁に四方を囲まれた部屋は、ベッドがひとつあるだけ。わたしたちは、この小さなベッドの上で、生活をする。もしこれが生活と呼べるのならば。
「どうやって時間をすごそう?暇で暇で仕方ないな」とあなたはいい、わたしの頬を撫でる。まるで風のように。
「なにもしなくてもいい」とわたしはいう。
「ほんとうに?」
「本物の愛とは、何もせずに感じられるものなの」
 こんな風にして、わたしたちはベッドの上で、ずうっと愛について、語り合う。
 わたしとあなたは、かつて、死ぬほど抱き合い、あいしあった。セックスだけでは我慢できなくて、お互いの体を噛み合ったり、お互いの血を舐め合ったり、お互いの体から分泌される排泄物や体液を飲み合った。
 けれど、この隔離病棟にいる現在は、そういう浪費の激しいあいしあい方はしない。わたしとあなたは、不思議な魔法を心得た。
 愛について語り合っているあいだに、あなたの体の輪郭はだんだん霧のようにぼんやりしていく。そしてわたしの体の膣へ、肛門へ、毛穴のひとつひとつへ、入り込んでいく。終いに、わたしたちの体はひとつになる。
 慣れ親しんだ、あなたの温度が、この体の中へ浸透していく。わたしは何度もあなたの名前を口ずさむ。
 ああ、きもちいい。どうして、かつてのわたしたちは、あんなに不器用な愛の戯れをしていたのかしら?
 わたしとあなたは、一体になって、そのまま、眠りにつく。完璧な眠りに。まるで死のような。


 目を覚ます。それはあまりにも鮮やかな、目覚め。眠たい目をこすって、などという曖昧な目覚めではなくて、起きた瞬間にすべてが清明になっている、完璧な目覚め。いわば第二の誕生?
「おはよう」
「おはよう」
「お腹、すいた?」
「すいてない」
「僕も同じ」
「どうやって時間をすごそう?暇で暇で仕方ないな」
「なにもしなくてもいい」
「ほんとうに?」
「本物の愛とは、何もせずに感じられるものなの」
 こんな風にして、わたしたちはベッドの上で、ずうっと愛について、語り合う。
 わたしとあなたの愛を、周りの人間たちは、決して、許さなかった。
 わたしたちはまだ若く、あなたはわたしとは別に、約束された婚約者がいた。
「一番、美しいのは、不可能の愛だな」とあなたは結論づける。
「だとしたら、一番、美しいのは、死ということになるわ」
「その通り、よくわかってるじゃないか。死は永遠への救いの道だ。誰も追ってこない。なぜって、死者には時間がないのだから」
 ずいぶん前にも、あなたは同じ話をしたような気がする。そう、わたしたちは常におなじ話を繰り返している。堂々巡り。あいしあっているわたしたちは、それでも決して、飽きない。同じところでくくくっと笑い、同じところで唾を飛ばす。
 死について語り合っているあいだに、あなたの体の輪郭はだんだん霧のようにぼんやりしていく。そしてわたしの体の膣へ、肛門へ、毛穴のひとつひとつへ、入り込んでいく。終いに、わたしたちの体は、ひとつになる。
 慣れ親しんだ、あなたの温度が、この体の中へ浸透していく。わたしは何度もあなたの名前を口ずさむ。
 ああ、きもちいい。どうして、かつてのわたしたちは、あんなに不器用な愛の戯れをしていたのかしら?
 わたしとあなたは、一体になって、そのまま、眠りにつく。完璧な眠りに。まるで死のような。



 目を覚ます。それはあまりにも鮮やかな、目覚め。眠たい目をこすって、などという曖昧な目覚めではなくて、起きた瞬間にすべてが清明になっている、完璧な目覚め。いわばそれは、第二の誕生?
「おはよう」
「おはよう」
「お腹、すいた?」
「すいてない」
「僕も同じ」
「どうやって時間をすごそう?暇で暇で仕方ないな」
「なにもしなくてもいい」
「ほんとうに?」
「本物の愛とは、何もせずに感じられるものなの」
 こんな風にして、わたしたちはベッドの上で、ずうっと愛について語り合う。
「いくら体で抱き合っても、どこにも進まない」
「そんなことは、わかってるさ。でも、いまは大丈夫だろう」
 そういって、あなたの体の輪郭はだんだん霧のようにぼんやりしていく。
 わたしたちは、いつから、この不思議な魔法を覚えたのだろう?
 たぶん、この隔離病棟に収容されてからだ。
 わたしたちは、わたしたちの愛を完璧にするために、死をともにすることを選んだ。数え切れないほどの、たくさんの医者から処方された睡眠薬を、ふたりでわけて飲んだ。
 目を覚ますと、わたしたちは、ここに隔離されていた。
 世界を拒絶したわたしたちは、まだ自分に世界を感じる意識があることを悔やんだ。けれども、よく考えてみれば、この閉鎖病棟は、世界と呼べる代物ではなかった。
 ここには、あなた以外の人間は、いない。気配すら、ない。時間があるのかどうかさえ怪しい。だって、ここには窓がないから。昼なのか夜なのか、まるでわからない。
 霧になったあなたは、わたしの体の膣へ、肛門へ、毛穴のひとつひとつへ、入り込んでいく。終いに、わたしたちの体はひとつになる。
 慣れ親しんだ、あなたの温度が、この体の中へ浸透していく。わたしは何度もあなたの名前を口ずさむ。
 ああ、きもちいい。どうして、かつてのわたしたちは、あんなに不器用な愛の戯れをしていたのかしら?
 わたしとあなたは、一体になって、そのまま、眠りにつく。完璧な眠りに。まるで死のような。



 目を覚ます。それはあまりにも鮮やかな、目覚め。眠たい目をこすって、などという曖昧な目覚めではなくて、起きた瞬間にすべてが清明になっている、完璧な目覚め。もしかしたら、それは目覚めとは言わないかもしれない。いわばそれは、第二の誕生?
「おはよう」とあなたはいう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

昔書いたの(最初4枚)

おわりのない街



<こちら側から>

 いつもはやさしく意識をからめとっていくはずのまどろみがなかなかやってこないものだから、わたしはなかばやけっぱちになって温めたマグカップにコーヒーを注ぎ、ベッドの縁に座り、天井を眺めて、その格子模様で張り合いのないあみだくじをしたりした。誰もがひとつきりの眠りの女神を持っているものだとあなたは言う。そしてそれはおそらく、死の女神でもあると。それは物だったり人だったり、あるいはひとつのシーン、もしくはもっと朦朧としたイメージだったりするらしい。蜜色に輝く街だとか、あるいはいなくなってしまった誰か、名を忘れてしまった旋律――とにかく、一番重要なのは、それがここにないばかりか、たぶんどこにもないものであることだ、元の形からゆがめられ、この世界にある何ものとも違ってしまったものなのだ、とあなたは言った。わたしにはそんな女神などいない。あなたはあまりにロマンチストにすぎるとおもう――ということを、今度あなたと電話で話をするときに、わたしは言おうと考えた。でもおそらく前にも何回か言ったことがあるはずだ。別にかまいやしない。わたしたちの会話は、いつだって同じことの繰り返しで、話の筋も結局のところ堂々巡りで、どこにもたどり着くということがない。――なのだけれど、わたしたちはまたあの意味のないおしゃべりを繰り返すだろう。ちょうど今などは、あなたから電話があってもおかしくない時刻だ。一時十五分。
 時計はまじまじと眺めないことにしている。
 掛時計にしても置時計にしても、というよりこれは家具一般にいえることだけれど、わたしはガラスだけとか、金属に白い文字盤とか、冷徹で、無機質な感じがするものを好む。ただそういうデザインの時計は、秒針の音がいくぶん――たぶん実際以上に――大きく聞こえるような気がする。ガラステーブルの上の目覚まし時計と、冷蔵庫の真上に掛かっている掛時計の秒針は、四分の一拍くらいずれている。前にいちど、気になって仕方がなくて、目覚まし時計の電池を出したり入れたりして調整しようとしたのだが、うまくいかない。何回試してみても、やはり四分の一拍だけ目覚まし時計の方が遅れている。それで、じっと白い文字盤と黒い秒針とを眺めていると、なぜか背中に寒気が走って、しまいにはいてもたってもいられなくなった。そしてあなたに電話をした。こういうことを話す相手はあなたしかいなかった。
――怖いの、ねえ、時計が怖いの。
――時計。
 と・け・い。あなたの声は湿っぽくてくぐもっている。それは正確にことばをつむぎだそうとする努力、そしてその努力がなかなか実らないことのもどかしさの表れであるようにおもえる。わたしはできるだけ細かに事情を説明した。説明しているうちに、何だか馬鹿らしくなってきて、最後にはさっきまで怯えていた自分に笑ってしまう始末だった。
――だったら、もっと鈍感そうな時計か、それともいっそデジタル時計にしちゃえばいいんだよ。
――んん、いいの。これからは時計の文字盤をまじまじと眺めないようにするから。
 この終わりのないおしゃべりのはじまりはどこだったか? わたしにはよく思い出せない。あなたが東京に行ってから、わたしはあなたと電話でしか話すことができなくなった。けれども、わたしにはこのおしゃべりが、それよりもっと前から――ひょっとしたら、あなたと会う前から――続いていたような気がする。おかしな話だけれども。もしかしたら、電話の向こうのあなたは実在していないのかもしれない、あなたはわたしが作り出した影にすぎず、そしてわたしはただその影に向かってしゃべりつづけているだけなのではないだろうかと、そんなふうに考えることもある。むろん、それは妄想にしかすぎない。あなたは確かに二年前までわたしに姿を見せていたのだし、あなたの声はそのときから全然変わっていない。

鏡の国の

 薄くまぶたをあければ雪がしんしんと降っている景色がにじんでいて、何かに包まれていて揺さぶられていて、どこかに運ばれている。
 それはわたしの身体がまだばらばらだった頃の話。
 第三者のカメラから見ればどうということはない、ひとりの大人が、小さな子どもを抱いて、雪の中を病院まで走って行く風景、だけれどこれはのちのちの想像力が作り上げたワンカットにすぎない。
 いま、鏡を見ればわたしの足と手と胴と首と頭と髪の毛がひとつらなりであることがわかる、このひとつらなりのわたしを自覚したのはいつからのことだろう。

 わたしのこのひとつらなりの肉体の中身、それはあまりにも頼りなく、ばらばらであって、ひとつの言葉で揺らいだり、ひとつの刺激で揺らめいてしまう、そしてこの中身はたくさんの他人の言葉ででき上がっている、そのせいであまりにも不安定で、ひとつのところに定まらない、ああ、わたしが神様を信じていたならば、たったひとりの。
 神様を信じている人は別だろう、厳密な意味でひとつの神様を信じている人は、そんな人が本当に存在するかどうかは別として、たったひとりの「あなた」の言葉で成り立っていて、揺るぎがない、内面ひとつで生きて行けて、恋人の名を呼ぶように「あなた」の名を呼ぶ、けれどその人たちが、もしたったひとりの「あなた」から裏切られたとしたら?それはおそろしい想定だ、わたしには耐えられそうもない...。
 けれどそんなひとつらなりの内面を持っている人はきっと肉体など必要としていないのだろう、神様を一心に信じる人はみな同じ格好で身体の皮膚を覆い隠す、かれらにとって肉体とはかれらの内面を構成する「あなた」の言葉に濁りをもたらす不純物でしかないのだから。

 そんな彼らとは違う、不安定で、うつろいやすい中身を持ったわたしをひとつに統一するのはこのひとつらなりの肉体、しかなくて、だからわたしは他人の肉体を必要とするのだし、他人の視線を必要とするのだし、動物の肉を食べる事を必要とするのだし、アルコールによる頭のしびれと強制睡眠を必要とする。こういう開き直りはとてもよくないことだ、世界に混沌と無秩序をもたらす悪魔の思想、もしそれを思想と呼ぶ事ができるのであれば。けれどこれはほんとうにどうしようもないことなのである。
 わたしのおしゃべり、肉体の動き、それらの大部分が君の、もしくは君に近い誰かの、正確にいえばわたしの中の君たちの、欲望の単なる反映でしかないことについて君はどれほど自覚的なのだろうかとわたしはときどき問いたくなる、いやこれはうそだ、まっかなうそだ、実をいうとそのときわたしは何も考えていない、わたしはぼんやりとした目で自分の周りの出来事自分の中に起こってくる変化に対応し反応しているにすぎない。ただあとになっていつもそう思う。わたしの言葉や動きに猥褻で汚らわしいところがあるのだとすればそれは君の中身が猥褻で汚らわしいのであり、わたしの動きに美しいところがあればそれは君の中身が美しいのだ、正確にいえば、わたしの中の君たちの中身が。
 君がわたしの虚像を見ている限り、わたしはその虚像を演じつづけ、その限りにおいてわたしは永遠にわたしになれず、だから、わたしと君は永遠に交わらない、けれど、本当のわたしが誰なのかわたしにもわからない。それにまた、君がわたしの虚像を見ているというわたしの感覚ももしかするとわたしから見える君の虚像によるものなのかもしれなくて、結局のところ肉体を媒介とした偽物の解決をとりあえずの結論とするしかない。認識で解決する事が不可能なのであれば、すなわち、神様を信じられないのだったら。

 絶望的だ、酒を呑んで肉を食うしかない。でも太りたくない。本当に太るっていうことはイヤだ。

ある小説書きの死

 ばかなやつ、心からそう思う。
 
 わたしがはじめて彼と出会ったのは、確か10年くらい前のことだったろうか、うん、たぶん、そうだね、彼が確か大学に受かるかとか受からないかとかそういう時のことだった。
 あのときからさあ、存在感、あったなぁ。

 演劇やってたせいか声がよく響くし、あと身体がでかいし、顔が濃いし、あとね、人の身体を触れるときなんかやたらキモいのよww、なんつうか、ね、まあつまるところ押し付けがましいほどの存在感、としかいえないな。
 彼は小説書きだった、わたしもその頃たくさん書いていた。おそらく、彼が純文学と呼ばれているらしいタイプの小説を書いていたころは、彼は大分わたしを意識していたんじゃないかと思う、やや、思い上がりかしら?ううん、彼はたしか「あと○年であんたに追いこせばそれでいいんだ」とかワケのわからないことを言ってた、まあ、なんというか、いくつか共通点があったのだ、当時は認めたくなかったけれど。彼もわたしもメンタルに問題を抱えていた、し、あとはなんなんだろうな、成熟を拒否しているようなところが似ていたんだろうか、しかしわたしは彼の拒否の仕方は嫌いだったし、嫌いだと口に出していた。いまから思えば同族嫌悪だろう、明らかに。彼の反抗の仕方はわたしにはやや芝居がかっているように見えたし、あまりにも型通りだったし、であるがゆえに勝ち目がないように思えた。もっとも、勝ち目のある成熟の拒否の方法というものが現実に存在するのかどうかはわからないけどね。
 で、そういうところが小説にもはっきりと現れてた。文章は綺麗だけれど彼の小説は青臭かったし、いわば「男の子らしい女々しさ」とでもいうべきおセンチなところがあって、わたしはそこをすごくdisっていたような気がする。

 いまや彼は死んでしまった。わたしは生きている。かなりギリギリ、かなりヘンテコな生き方で。現在のあり方は成熟への拒否?まあそうとも受け取れるかもね。
 かつて、創作だか小説だかで徹底的にdisりあいなどしていた二人が、かつて、下北沢のぶーふーという地下のうさんくさい喫茶店で店員に白い目で見られながら朝が来るまで口喧嘩していた二人が。思い出すのだ、お互いのことを徹底的に非難しあいながら、小田急が動き出す頃になって、とつぜん彼が笑いはじめ「あーばかばかしい」みたいなことを言い出して、何もかもばかばかしくなってしまった朝。

 わたしはもしかすると彼のことを大きく誤解していたのかもしれない。彼は根本的には真人間だと、自分の真人間でなさと比べて、思っていたのだ。なぜって、彼はなんだかんだで家族のことをとても愛していたし、学生生活というものに対する態度はその不真面目さも含めてなんだかんだで平均的男子w大生、という気がしたし、なんだかんだで就職をするし、なんだかんだで自転車や釣りといった健康的な趣味があったようだし、なんだかんだで芝居という、わたしにはできそうもない集団行動にコミットできたし、それにたいてい「女子高生とセックスしたい」だの言う男子大学生っていうのは、真人間であることから来る閉塞感を、そういう言葉で発散しているだけであって現実にはたいてい常識人なのだ。常識人じゃない奴は無言で行動に移す。さすがに人のアパートでトイレットペーパーに火をつけはじめた時はコイツ頭おかしいんじゃないのかしらと思ったけれどね。まったくキチガイじみた時代だったわ、池袋時代。
 そうなのだ、彼は「なんだかんだで」なんとか折り合いをつけていく、と思っていたのだよ、わたしは。「なんだかんだで」折り合いをつける、すばらしいことじゃない。すっきり折り合いつけるよりベターだし、折り合いつけられないことと比べたらもっとベター。ところが彼は薬を飲み続け、死にたいだのなんだのと日記に書き続けていた。彼がどういう風にああいうことになってしまったのかは未だにわからないけれど、ね。事故だと思うのよ、でも、薬を頼りにしなければならない状態がずっと続いていたのはやっぱりよくなかったと思う。
 いまから考えてみると、ある時期を境にどうも彼はおかしくなったような気がする。わたしから見て、だけれどもね。mixiでブロックしたこととか、ゴールデン街でわたしを思いっきり批判したこととか、まあ、そんなことはどーだっていいんだけれど、(正直お互い何を言ったのかすら覚えていない。会った時からすでに口喧嘩モードだったのだ)なんというのか、余裕がなくなっていったように見える。そのせいで、彼のネガティブな方向の彼らしさがより先鋭的になってしまったような、そう、何かに追いつめられているような。馬鹿な、まだ20代だろー?まあ余裕ないっちゃわたしも同じだったけどね。ラノベでもう少しで新人賞、ってことになったとき、もすこし声のかけようがあったかもしれないけれど、なんでだろう、彼、無闇矢鱈に人の感情を逆撫でするところがあるのよ、人をわざと苛立たせるというか、論破厨っぽいところがあるし、なんであんなにわざと人から嫌われようとするんだろう?そこははっきり言ってわたしは未だに理解できない、理解できないし、ばかだなあ、と思う。わたしは寂しがりやだし、愛着ある人間に嫌われるのはいやだ。わたしは弱い。いやそれを言うのなら彼だって弱いのだが、彼は自分でそれを認めようとしない。

 ここまで読んでもらったらだいたい勘づいて頂けると思うけれど、わたしと彼の関係はここ最近は必ずしもよくなかった、というか、ほぼ絶交状態だった、なんというか、わたしとしては、そのうちまた「なんだかんだで」しゃべる場を持つことになるんだろうなあ、嫌いだけど、と思っていたのだが、そのまま絶交状態が続いた。おや、おかしいなとは思っていたけれど、わたしにだってわたしの生活はあった。
 そして「なんだかんだで」彼は人生を歩んで行くのかと思っていたら、なんだかんだとはいかなかった。でもさあ、なんだかんだでなんとか行く方法はあったと思う。なんの必然性もない、こうなる必要なんてどこにもなかったんだよ、これは事故だよ。ばかやろーだ、もっと気をつけていれば。わたしは電話でそう言った。涙が出た。

"戦友が、戦争で、ヘマをして死んだ。だから「アホか」という想いが最も大きい。「もうちょっと上手く戦えば、死ななかっただろう。もうちょっと慎重に戦えば、いつかは勝てたかもしれないじゃないか」と。"

 彼の友人Jがこのような文章を書いたが、ここにつけくわえることはとくにない。
 でももしかすると、すべての人間の死は、というか死に限らずあらゆる出来事は、なんの必然性もなく、こうなる必要なんてどこにもなかった、と語られるものなのかもしれない、あらゆる生は失敗の集まりでしかないのかもしれない。そうだとしても。
 ばかやろう、としか言いようがない。ばかやろうよ、あんたは。
 今でも思い出す。池袋のアパートで、下北沢で、上野の花見で、もううざったいくらいの存在感を持ったアイツのうざったい振る舞いを。

 Jから「あんたは死ぬなよ」的なことを言われた。まあ、わたしは死なないよ、とりあえずはね。なんだかんだでやっていくよ、なんだかんだは意外と通用しないものだけれども、それでもなんだかんだやっていくしかないじゃない。ただし、ナイーブとか繊細とか青臭いとかもううんざりだわ、煮ても焼いても食えないとか、図太いとか、そういう人間になりたいものだわ。

 もう、まったく。
 追悼文ってのはいつだって何となく滑稽だな。生者が生者の都合をたらたら喋ってるような気がして。

1/24ustまとめー未決定なわたし、そして言葉と身体

 お久しぶりの更新なのです。

 今回の内容は昨日のustのまとめ+補足、ということで、元々喋るのが苦手である上に、正直なところなかなか話しづらいテーマであったためか、舌が思うように動かずスミマセンでした....(´・ω・`)こういうのって、原稿用意しないと難しいのかな...大まかなアウトラインを頭に入れて程よく脱線しながら語ろうと思ったんですがどうもわたしにはそういう器用なことは向いてないようです。ま、話しづらさを感じるのは、意外にも(?)わたしに「いい子」でありたいところがまだ残っているせいなのかもしれません。仲の良い数人と、音楽でテンションを高めつつお酒を飲みながら喋ればもう少し滑らかになったかもしれませんね。言ってもしょうがない話ですが。
 さあ、前置きはほどほどにして....

■マイノリティにさえなれない
 セクシュアリティについての言説を目にするとき、わたしがいつも違和感を抱くのは、多くの人々が実に無邪気に、あるひとつの身体の志向性と、ある言葉が一対一対応するものと思い込んでいることです。もちろんこの無邪気さは、マジョリティにより多く見られるものですが、しかし、マイノリティの側にも確実にあります。
 たとえば今のわたしはセクシュアリティの言葉で言えばMtFTGと表現することができるでしょう。しかしその言葉だけで、わたしの身体が持つ、そして持ってきた、そしてこれから持つかもしれないセクシュアリティをすべて表現できるでしょうか。あるいはもしかしたら持っていたかもしれないセクシュアリティを。どうもわたしは、この身体はこの言葉にかちっとハマらないような気がするのです。もちろん、他の言葉と同じように。
 確かにわたしは小学生の頃から女性ジェンダーに自分を当てはめ、自分が男性の身体を持っていることを不条理、何らかの暴力だと思っていたことが多かった、でもかといってこれまで常にその感覚を持ち続けていたというわけではありません。たとえば、中学3年生の頃や、大学の1,2年生の頃、このときはわたしの人生の中で良い友人に恵まれていた時期でしたが、その頃はこういう違和感は少なかったように思います。思えば、あの友人たちは、わたしが性別のあやふやな子どもであることをある程度容認してくれていたような気がします。そしてそんな中でわたしは自分の性を受け入れつつあり、ある程度ホモソーシャルな付き合いの中にも入ったりもしたのでした。何人かの女性とも付き合いましたしネ。(どれも1ヶ月も続かなかったなー☆)まあ、その後は...(笑
 あんまり自分の話をするのも気恥ずかしいので、また別の例を挙げましょう。たとえばゲイの人は自分が生まれた頃からゲイだと、レズビアンの人は生まれた頃からレズビアンだと、思っている人がすべてなのでしょうか。どうもわたしの見たところではそういうことではなさそうです。だいたい自分はどの性別が性的に好きかなんて物心ついた頃から知っているなどというのは、人によってはあるかもしれないにせよ、誰もがそうであるというのは、かなりあやしい話だと思われます。(あ、ひとつお断りですが、LGにしてもTにしても生物学的決定論の立場はわたしはとりません。これはやはり理屈としてかなり無理のある説だと思っています。かといって環境決定論もとりません。生物学的要因はあるが決定的ではない、という立場です)
 さて、そうだと自覚する前の、あるいは、そうであると自分を規定する前のかれら彼女らや、以前のわたし、こういうマイノリティ未満、の人はどういう風に扱われるのでしょうか?もしかすると最近とみに増えてきたように思えるAセクシュアルや、パンセクシュアル、Xジェンダーなどの非定型セクマイの話と関係がありそうな気がします。(非定型セクマイ、というのはわたしが勝手に開発した用語なのでご了承)

 こういうと性対象と性自認の問題を一緒くたにしている、とお叱りを受けるかもしれませんが、わたしがいまここでつかみたいのは、性対象であれ、性自認であれ、そういったかっちりとした言語による枠組みが届かない、他者から見ればカオスと矛盾に満ちた、だけれどもこの「わたし」の中では自明な、ゆえに通常の言語と論理では説明不可能な領域のことです。マイノリティ未満の、しかし確実にマジョリティではないかれら彼女らは、ここを彷徨っているように思います。そして、それはわたしの心の底でも黒々とした下水のように流れているように思います。そしてそこには言葉の光がほとんど——まったくではないのです——届かないのです。
 わたしはつまり、こういいたいのかもしれません、男も女も、異性愛もすべて言葉によって構築された制度でありフィクションであると。そしてこれらのものに疎外されたものこそが、「黒々とした川」であると。たぶん、同じ意味であるように思います。男、女、愛、セックス、結婚、出産...これらすべての言葉が自分の身体に馴染まず、やけに人工的なものに思え——言葉とは制度とはそもそも人工的なものであると諦めることをかれら彼女らは知らない——そしてこれらニセモノの言葉の外、この黒々とした川の中で、大部分の言葉の光から疎外された、ほのぐらい、身体感覚とイメージが支配する世界で、わたしはほんとうのわたしを探す、わたしが分らないわたしは、この世界に対して受け身の姿勢で、翻弄され、巻き込まれながら、ほんとうのわたしなどそもそも存在しないのではないかと感じながら——
 
 ……っとぉ、こういう話は小説でやれって話ですね。
 さて、この、「黒々とした川」に足を取られた人は、たとえば性自認の問題で既存の「男」からも「女」からも疎外されたならば、TGにさえなれない。性対象の問題で疎外されたならば、自分をゲイともビアンともヘテロだとも言えない、そういうことになるわけです。
 未決定のわたし、何ものでもないわたし。

 ここで、千葉雅也さん(@masayachiba)のツイートを引用します。
『ゲイが(なぜ自分はヘテロではないのか?という)アイデンティティ危機に陥って統合失調症的になるっていうのは、本当なんでしょうか。それは、同性愛者の自らに対する「内面化されたホモフォビア」をこじらせたケースだと思います。そういう苦しみをする人もいるだろうけれど、しない人もいる。』

 千葉さんが疑問を呈しているこの噂(?)ですが、まず統合失調症的、という表現がどうだろうかという突っ込みどころはありますよね。そして千葉さんの見解は、本当にぐさっと来るほど同意というか、その通りというしかないというか、これ、TGでもありますよ。内面化したトランスフォビア。わたし女装したオサーンじゃんマジ死にたいこんなのイヤだ嫌だもうわたしは別の存在になるっていうかわたしって誰マジ誰、みたいな。わたしにもありますよもちろん。フン、そんなはずはないし、たとえ女装したオサーンだったとしてもそれの何が悪い!と内なる自己に言い返すのがイイと分っていても。んー、認めないとダメ、かな。
 しかし、この、『ゲイが(なぜ自分はヘテロではないのか?という)アイデンティティ危機に陥って統合失調症的になる』という、このあやしげな話は、もしかすると、「ゲイ」の部分を先ほどわたしが述べた「セクマイにすらなれない人たち」に変えれば部分的に成り立つのかもしれません。かれら彼女らのよるべのない気持ち、「わたし」をどこに置いたらいいのか分らない状況、であるがゆえに言葉を奪われた状況、おそらくこれはフォビアとは微妙に異なるものではないのかしら。
 さて、彼ら彼女らがこの黒々とした川から脱出するには、方法はひとつしかないでしょう。自分は○○である!と規定し、できることならどこかのコミュニティに向かって宣言することです。つまり、カミングアウトということになるかなー、んー。カミングアウトって外にするものだけれど、わたし、これは対外的な効用や実利的な効用だけじゃなくて、内的な効用もあると思うのですね。TとLBではそりゃあ違う、かなり違いますけど。これは後ほど。
 つまり、カミングアウトの対象には、自分も含まれている、ってことかしら、あら、なんか既出っぽい結論だなあ。

 まーわたしなんてまだまだ。ぜんぜんですけどねぇ。どっちかっていうと黒い川を彷徨ってます、この歳でw


■自縄自縛こそが人生だ的な

 それにしても、正直、上の話はまったくもって暴力的な物言いであって、たとえば五年くらい前のわたしが読んだならブチキレもののお話かもしれません。何ものにもなりたくないわたし、何ものでもないというわたし、ありとあらゆる既存のカテゴリから自由なわたし、を自らの手で言葉でもって縛り付けよ、というのですから。枠に入れよ、と。ほんとうにMtFかどうかちょっとよくわかんないのに、どうもMtFっぽいみたいだから、MtFと宣言してみよう、宣言することで確信してみよう、だなんて、自己欺瞞もいいところじゃないですか。昨今タイムラインで決断主義なる言葉を見かけますがセクシュアリティ決断主義はちょっとやばすぎるような気もしますね。さすがにそこまで言ってませんにゃ。言ってませんが、あるセクシュアリティが100%自分にとって疑いなく身体に馴染んでなければ、そのように自己規定してはいけない、というのでは、どーにもならんではないか。そんなこというたらノンケもほんのちょいとしたきっかけで黒々とした下水道に落っこちてしまうわ、蓋のとれたマンホールがあっちこっち状態。ま、そうならないように世の中いろいろと整備されてるのだけれど。
 ほんとうのわたしの収まる場所、疑いを鋏む余地のないセクシュアリティ、そんな100%のアイデンティティは存在するのだろうか。わたしはひどく懐疑的だ。言葉は人工的なものであり、この身体はそうではない、のだから。それでは「わたし」は人工物か天然物か?......というと微妙だけれど。
 大学のころゲイの子が「たぶん、俺、女の子とヤッてみたら超気持ちいいと思うんだよね」と言っていたのを思い出す。やんないけど、と彼は付けたしたけど。

■ジェンダレスワールドでは同性愛もトランスも存在しなくなる?

 でもこれいかにもトランス的な視点だなあと思う。ゲイの人もビアンの人もちょっと違うと思う。ゲイやビアンやもっといえばバイでも、好きになっちゃえば、コーフンしちゃえば、それで自分はそうだと確信できるだけの条件が揃うもの。つまり、自分を規定するまでの迷いの期間が少ない、というか、0の人がけっこう多いだろうと思う。映画『メゾン・ド・ヒミコ』で、オダギリジョー柴咲コウにキスしたシーンは、おや、と思ったのだけれど、ああいう揺らぎはあり得るにしても、トランスみたいに自分は何ものなのか問題でグダグダ内面で悩まないような気もする。まあこれ現時点の話だけれども、子供産めないとか身体の構造がとか、いろいろあって、たとえばわたしなんてどんなに見目が女らしくなっても自分が完全に混じりっけなしの女だと確信できないよね。少なくとも内心はMtFのtに留まりつづけることだろう。SRSと同時に記憶消すとかすれば可能かな。でもさすがにそれは望まないわ。それ望んでる人がいたとしたらたぶん性同一性障害とかじゃなくて別の病気だよ。まあ内面の迷いのまったくないトランスもいるだろうけどさ。少数派だと思うけど。
 いやしかし、ゲイとトランスも隣接する部分があるのよなー。だって、昔ゲイでMtFっていう人もいるでしょう。同性愛を性同一性障害と誤診するケースが多い、みたいな話が昔タイムラインに流れてきたけど、それ、どういう基準なんだろう...。
 こういう性別がぐだぐだになった話、そしていかにこの世界の性規範が脆いかということを考えていると、やっぱりジェンダーが完全に相対化された世界というものを想像したくなりますね。男も女も関係ない!誰を愛そうが関係ない!そうすれば、あの傷だらけの少年少女が歩いていた薄暗い黒々とした下水の川にもまばゆい光が射すはずです。というか、下水の水が地上に溢れ出し、それはやがて大海とひとつになるでしょう。彼らは彼女らはいつまでも彼ら彼女らでいることができる。誰一人性別で縛られることはなくなる。確かにこれは現時点では理想論でしょう。しかし理想を持つことはよいことです。いいではありませんか。ばんざい!
 でもでもでも。
 そうすると一つ問題が出てきます。子孫の再生産なんてこの段階に入れば科学がなんとかしてくれるはずなので放っておきましょう。問題はそれではなく、この理想というのは実は同性愛やトランスを疎外するもの。この究極ラジカルな立場から見た時、同性愛やトランスはむしろ古い規範に縛られた反動的な存在、と見なされてしまう。そして実際、そのように言った人もいた。千葉さんが引用したドゥルーズ、「同性愛は強制異性愛システムの陰画である」と言った人、そして、性別が相対化されたらトランスはあんだけ頑張ってトランスするのにその意味がまったくなくなってしまうでしょう。
では問いかけましょう。

Q,"性別のない世界"の理想を掲げることはフォビアなのか?
 
 ごめん正直、わたしはこれはイエスじゃないかと思う。理解できるし、わたしも言いそうになるけど、フォビアだと思うよ。
 実はこの問いを見た時に、直感的に、そう思ったのだけれど、直感的に、でブログ書かれても困りますわね。んでわ、説明します。説明ってつまんないと思うけど、まあ、いいっぱなしじゃあね。
 この思想、どうも"否定"から入ってるのよ。字面なんか美しいけどさ。こういうものがあるのが悪いんだっ、いっそすべて消えてしまえっ、みたいな、消してやる!みたいな安直さ。性別が相対化されたって、何かしら別のものがあらわれてくるに決まってるの。性別だけでモノを考え過ぎ。人間のアイデンティティは性だけではない。そしてたぶんこれやっぱり、わたしが言うのもなんだけれど、ちょっと肉体を軽視しすぎじゃなかろうか。産まれたままの肉体を大事にしろっていう意味じゃなくって、人間みんなそれぞれ違う身体を持ってるんだよ、という。性別相対化したって、人間がみんな同じ形にならないんだったら同じことだ。性別規範に似た規範はまた出てくるだろう。どうもこの考え方は、見た目ほどには美しくなく、すべてのセクシュアリティに対するフォビアから観念的に生まれたもののように思えるよ。
(と、書いたところで、松浦理英子の『犬身』を思い出した。こうした「誰もが同じ世界」を夢見る主人公の語りがあったような。)

 なんというか、自己嫌悪を他人に背負わせてひどい人間嫌いに陥っている人が言ってるみたいで、神経質で余裕がなくて好きじゃないなー。
 それぞれの性がそれぞれのセクシュアリティを肯定できるようになればいい、というのが無難な落としどころではあるのだけれど、ね。
 だけどそれだとトランスは...........(まあこの続きは次回……があるかどうかわかんないな、疲れたお)

よわいこ。(1)手紙 

 あのひとたちが君をいじめるのは、君の才能を妬んでいるからに違いない、と言うあなたに、わたしはあのとき、違う、と言い、間をおいてもう一度違う、と言いました。ふたつの「違う」のあいだにあのひとたちがわたしを攻撃する本当のわけ、ずっとまえから分かっていたことをどう言葉にしたらいいものかと考えていたのですが、うまくいかず、話はうやむやのうちに終わってしまいました。今ならもしかすると書けるかもしれません。あなたには、わたしのすべてを知ってもらいたい。あなたにだけは、わたしのことを誤解して欲しくない。わたしはそうおもっています、たとえそれが現実には不可能であるとしても。

 あのひとたちがわたしの身体をぶったり蹴ったり暗いところに閉じ込めたり裸にしたりホースで水をかけたり、罵声を浴びせたり変な格好をさせたり理不尽な命令をしたりするのは、わたしがあのひとたちとは違うからではありません。もしわたしが、たとえばあの日一緒に見たまんが、ドラゴンボールに出てくるナメック星人のようだったら、あのひとたちはわたしに一歩も近づかないだろうとおもうのです。そう、あのひとたちは卑劣で臆病で根性無しだ、というあなたの意見は正しい、けれどあなたはとても重要なことを見逃しているようです。実はわたしもあのひとたちと同じように卑劣で臆病で根性無しなのです。そう、あのひとたちはわたしのことを自分と同じような人間だと感じるから、攻撃するのであって、決してわたしが特別だからではありません。もし、わたしが自分が特別だといい募ったら、あのひとたちはその行為自体を「ふつう」の枠内に吸収させて、そして、わたしの頬を叩くでしょう、何が特別だ、思い上がりやがって、笑わせる、と。その表情はきっと言っているはずです、「お前もおれと同じだな」と。そしてそのとき、あのひとたちはまったく正しいのです。わたしたちの世界では。
 あなたはきっと知らないでしょう、あのひとたちのわたしへの攻撃は多くは「正しいものが間違ったものを罰する」というかたちで行われるということを。わたしたちの世界を締め付けている不文法は、奇妙に伸び縮みし場合ごとにかたちを変え、わたしをいつも有罪とし、わたしの身体を傷つけます。こんなことをあなたには言いたくなかったのですが、一度、わたしは、あなたたちのやさしい世界でも明らかな悪とされるような、とてもひきょうな行為を働いてしまったことがあります。あのひとたちは未だにそのことでわたしを詰問し、暴力を振るいます。わたしは未だにこの刑期を終えていないようです。そしてこの罰に抵抗すると、さらに罰が加算されるのです。また、わたしはひどく臆病で怖がりで、ほかのひとたちが簡単にできることができないのですが、それは努力が足りたいからだ、とあのひとたちはわたしをぶちます。できないことを前にして、身体をもじもじさせている姿勢は、あのひとたちの目にどう映っているのでしょうか。たぶん、あのひとたちは、自分の嫌いな自分、をわたしに重ねあわせているのでしょう、こうなってはいけない自分、決して許すべきではない自分、そしてあのひとたちがわたしを罰しているとき、あのひとたちは架空の自分を罰しているのでしょう。だから、あなたはこれをいじめといいますが、わたしたちの世界ではいじめとは呼ばないのです。それどころか、まったく正しい行為なのです。
 この世界でよりよく生きるためには、正しい側に回るしかありません。けれどそれはとっても難しいことで、それならばいっそ、間違って、大きく間違って、あのひとたちとは違う存在になればいい、とある日わたしは思いました。できることなら、よりわたしの身体に合うような間違い方で。あのひとたちは同じ種類の同じ世界の人間しか攻撃しません。ネズミのように臆病だから。髪の毛を真っ赤に染めようか、顔中にピアスをつけようか...そんなことを思ったのですが、わたしにはやっぱり、どうしてだか、その程度のことさえ、できないのです。あのひとたちと同じように、ネズミのように臆病だからです。もしわたしが正しい側に回ったらあのひとたちと同じことをするのかもしれません。
 ある意味では、わたしとあのひとたちは仲間とさえ言えるのかもしれません。ごくまれにあのひとたちのひとりから優しい声をかけられることがあるのです。信じられないことなのですが、そのとき、わたしはなぜか感動を覚え、飼い主を前にした犬のように喜んでしまうのです。それはそのひととふたりきりになったときに起こる例外的な事件で、あのひとも「あのひとたち」になればたちまちわたしに痛みを与えるというのに。
 
 だらだらとした文章になってごめんなさい。ここまで書くのに、表現しづらいことや、あまり書きたくないこともあり、けっこう苦労しました。でも書くことで少し胸がすっとしたような気がします。とりあえず、あの日わたしが言えなかったことは、こういったことなのです。わたしが痛めつけられるのは、わたしが何か変わったところを持っているからではなく、ただ単に、わたしが弱い子だからなのです。正しい側に回ることも、間違い切ることもできないからなのです。

コミュ力不足(笑)と、身体のはなし

わたしはこれからいっぱい耐えなればならないのだろう。

いっぱい辛い思いをしたりやりきれない目にあったり、いじめられたり踏んづけられたり裏切られたり、自らの愚かさを悔やんだり迷ったり戸惑ったり諦めたり、自分の無能さに呆然としたり、

でも五年前くらいにも同じようなことを書いてたような気がする。

その間何をしてきたか、簡単に要約すれば上に書いたような漠然とした恐怖の中でひとりうすらぼんやりとやり過ごしてきた。
会社にいた頃もあったんだけど、さ。

愛されている、という言い方が大げさならば関係の網の中にいる、という確信が持てないわたしが、痛い目にあってもあんまり勉強にならないんだよ。世界はやはり敵ばかり、怯えて引きこもって悪循環に陥るだけで、それは引きこもれる場所があればこその手なのは知っているけれどなかったら?と訊かれたらちょっと分からない。

結局は、上手く人と付き合えないというありがちかつ下らなさげな問題に帰着してしまうのだろうか。コミュ力不足です、なんつって。
いや、だなー。
そんなインスタントな言葉でわたしの問題が包含されてしまうのか。

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前にもついったでpostしたことがあると思うが、自分の肉体そのものが余計に感じるときがある。だいたいこれをどう使ったらいいのかよくわからんの。
よくGIDの人が「自分の身体が自分のものでないような」みたいなことを言い、わたしもまあそういうところがあるんだが、だけどその感覚って果たしてGIDに特有のものなん?とは思うのだ。
んー、統合失調症的な『操られ感覚』とかじゃなくて、あえて言うなら自分の身体の「他者感」ってかんじ?
そういうのって、特に女性文学においては、川上未映子の『乳と卵』とかで割とよく見るような。それと、フェミニズムの文脈でよく出てくる「自分の身体のことは自分で...」とかいう言い方は、自分の身体が自分のものでないから出てくるんじゃないのかな。

*んーその辺りの主張にはかなり同意な部分があるかな、と思う一方で、どんな世の中になったところで、そういう人たちの身体が完全に自分自身のものになる日は来ないような気がするけれど、それはまた別のはなし*

で、ノンケの男性はどうなんだろうなー、と思うけれど、そういうことを言う男性というのはほとんど見かけない、というか少なくともわたしが知っている範囲では皆無だ。これを生物学的な違いに全て還元するのはどうだろうなあ、わたしはそういう考え方、好きじゃない。
んでしばらく考えてみたのだが、彼らは戦士なのだ。鎧と兜と盾と剣を装備して、それらの品を振り回してみたり、磨いたりするのに、余念がなくて、自分の丸裸の姿に意識が及ばないんだと思われる。そしてきっと丸裸のところに何かが及んだとしても、その何かをすみやかに社会的な何かに置き換えちゃうんだろう。それはきっと、それ自体でいいことでも悪いことでもない。へたくそな剣をあっちこっちで振り回さないかぎり。

※ところで、少なくとも21世紀の日本では、この戦士というのは生物学上♂とは限らないし、また、生物学上♂がみんな戦士と言うわけではないし、パートタイム戦士というのもいる、のだ、もちろん。GIDとかそういうのとは関係なく。