昔書いたの(最初4枚)

おわりのない街



<こちら側から>

 いつもはやさしく意識をからめとっていくはずのまどろみがなかなかやってこないものだから、わたしはなかばやけっぱちになって温めたマグカップにコーヒーを注ぎ、ベッドの縁に座り、天井を眺めて、その格子模様で張り合いのないあみだくじをしたりした。誰もがひとつきりの眠りの女神を持っているものだとあなたは言う。そしてそれはおそらく、死の女神でもあると。それは物だったり人だったり、あるいはひとつのシーン、もしくはもっと朦朧としたイメージだったりするらしい。蜜色に輝く街だとか、あるいはいなくなってしまった誰か、名を忘れてしまった旋律――とにかく、一番重要なのは、それがここにないばかりか、たぶんどこにもないものであることだ、元の形からゆがめられ、この世界にある何ものとも違ってしまったものなのだ、とあなたは言った。わたしにはそんな女神などいない。あなたはあまりにロマンチストにすぎるとおもう――ということを、今度あなたと電話で話をするときに、わたしは言おうと考えた。でもおそらく前にも何回か言ったことがあるはずだ。別にかまいやしない。わたしたちの会話は、いつだって同じことの繰り返しで、話の筋も結局のところ堂々巡りで、どこにもたどり着くということがない。――なのだけれど、わたしたちはまたあの意味のないおしゃべりを繰り返すだろう。ちょうど今などは、あなたから電話があってもおかしくない時刻だ。一時十五分。
 時計はまじまじと眺めないことにしている。
 掛時計にしても置時計にしても、というよりこれは家具一般にいえることだけれど、わたしはガラスだけとか、金属に白い文字盤とか、冷徹で、無機質な感じがするものを好む。ただそういうデザインの時計は、秒針の音がいくぶん――たぶん実際以上に――大きく聞こえるような気がする。ガラステーブルの上の目覚まし時計と、冷蔵庫の真上に掛かっている掛時計の秒針は、四分の一拍くらいずれている。前にいちど、気になって仕方がなくて、目覚まし時計の電池を出したり入れたりして調整しようとしたのだが、うまくいかない。何回試してみても、やはり四分の一拍だけ目覚まし時計の方が遅れている。それで、じっと白い文字盤と黒い秒針とを眺めていると、なぜか背中に寒気が走って、しまいにはいてもたってもいられなくなった。そしてあなたに電話をした。こういうことを話す相手はあなたしかいなかった。
――怖いの、ねえ、時計が怖いの。
――時計。
 と・け・い。あなたの声は湿っぽくてくぐもっている。それは正確にことばをつむぎだそうとする努力、そしてその努力がなかなか実らないことのもどかしさの表れであるようにおもえる。わたしはできるだけ細かに事情を説明した。説明しているうちに、何だか馬鹿らしくなってきて、最後にはさっきまで怯えていた自分に笑ってしまう始末だった。
――だったら、もっと鈍感そうな時計か、それともいっそデジタル時計にしちゃえばいいんだよ。
――んん、いいの。これからは時計の文字盤をまじまじと眺めないようにするから。
 この終わりのないおしゃべりのはじまりはどこだったか? わたしにはよく思い出せない。あなたが東京に行ってから、わたしはあなたと電話でしか話すことができなくなった。けれども、わたしにはこのおしゃべりが、それよりもっと前から――ひょっとしたら、あなたと会う前から――続いていたような気がする。おかしな話だけれども。もしかしたら、電話の向こうのあなたは実在していないのかもしれない、あなたはわたしが作り出した影にすぎず、そしてわたしはただその影に向かってしゃべりつづけているだけなのではないだろうかと、そんなふうに考えることもある。むろん、それは妄想にしかすぎない。あなたは確かに二年前までわたしに姿を見せていたのだし、あなたの声はそのときから全然変わっていない。