鏡の国の

 薄くまぶたをあければ雪がしんしんと降っている景色がにじんでいて、何かに包まれていて揺さぶられていて、どこかに運ばれている。
 それはわたしの身体がまだばらばらだった頃の話。
 第三者のカメラから見ればどうということはない、ひとりの大人が、小さな子どもを抱いて、雪の中を病院まで走って行く風景、だけれどこれはのちのちの想像力が作り上げたワンカットにすぎない。
 いま、鏡を見ればわたしの足と手と胴と首と頭と髪の毛がひとつらなりであることがわかる、このひとつらなりのわたしを自覚したのはいつからのことだろう。

 わたしのこのひとつらなりの肉体の中身、それはあまりにも頼りなく、ばらばらであって、ひとつの言葉で揺らいだり、ひとつの刺激で揺らめいてしまう、そしてこの中身はたくさんの他人の言葉ででき上がっている、そのせいであまりにも不安定で、ひとつのところに定まらない、ああ、わたしが神様を信じていたならば、たったひとりの。
 神様を信じている人は別だろう、厳密な意味でひとつの神様を信じている人は、そんな人が本当に存在するかどうかは別として、たったひとりの「あなた」の言葉で成り立っていて、揺るぎがない、内面ひとつで生きて行けて、恋人の名を呼ぶように「あなた」の名を呼ぶ、けれどその人たちが、もしたったひとりの「あなた」から裏切られたとしたら?それはおそろしい想定だ、わたしには耐えられそうもない...。
 けれどそんなひとつらなりの内面を持っている人はきっと肉体など必要としていないのだろう、神様を一心に信じる人はみな同じ格好で身体の皮膚を覆い隠す、かれらにとって肉体とはかれらの内面を構成する「あなた」の言葉に濁りをもたらす不純物でしかないのだから。

 そんな彼らとは違う、不安定で、うつろいやすい中身を持ったわたしをひとつに統一するのはこのひとつらなりの肉体、しかなくて、だからわたしは他人の肉体を必要とするのだし、他人の視線を必要とするのだし、動物の肉を食べる事を必要とするのだし、アルコールによる頭のしびれと強制睡眠を必要とする。こういう開き直りはとてもよくないことだ、世界に混沌と無秩序をもたらす悪魔の思想、もしそれを思想と呼ぶ事ができるのであれば。けれどこれはほんとうにどうしようもないことなのである。
 わたしのおしゃべり、肉体の動き、それらの大部分が君の、もしくは君に近い誰かの、正確にいえばわたしの中の君たちの、欲望の単なる反映でしかないことについて君はどれほど自覚的なのだろうかとわたしはときどき問いたくなる、いやこれはうそだ、まっかなうそだ、実をいうとそのときわたしは何も考えていない、わたしはぼんやりとした目で自分の周りの出来事自分の中に起こってくる変化に対応し反応しているにすぎない。ただあとになっていつもそう思う。わたしの言葉や動きに猥褻で汚らわしいところがあるのだとすればそれは君の中身が猥褻で汚らわしいのであり、わたしの動きに美しいところがあればそれは君の中身が美しいのだ、正確にいえば、わたしの中の君たちの中身が。
 君がわたしの虚像を見ている限り、わたしはその虚像を演じつづけ、その限りにおいてわたしは永遠にわたしになれず、だから、わたしと君は永遠に交わらない、けれど、本当のわたしが誰なのかわたしにもわからない。それにまた、君がわたしの虚像を見ているというわたしの感覚ももしかするとわたしから見える君の虚像によるものなのかもしれなくて、結局のところ肉体を媒介とした偽物の解決をとりあえずの結論とするしかない。認識で解決する事が不可能なのであれば、すなわち、神様を信じられないのだったら。

 絶望的だ、酒を呑んで肉を食うしかない。でも太りたくない。本当に太るっていうことはイヤだ。