創作<15枚>

天狗のはなし


 ねえ、ゆーくん、天狗のこと知ってる? 子どもを攫って儀式の生け贄にするの。たまに大人も攫うんだけれど。
 知らないんだ。なら、あたしが話してあげる。そうねえ、たしかに。ゆーくんみたいな人はきっと知らないと思う。都会の、まじめな、サラリーマンだものね。ううん、知らないなら知らないでいい。知っていなくちゃいけないことじゃないもの。ううん、そういうことじゃない、世の中には知らなくても良いことがある、っていう意味じゃなくて、ひとりの人間が知りうることは限られていて、誰にでも絶対に知り得ないことはどうせどこかに必ずあるってこと。たとえば地球人から見た月の裏側のように。天狗のことがゆーくんにとって月の裏側であるように、あたしにだって、ゆーくんの知っていることで永久に知り得ないことがきっとある。確実に月の裏側の景色は存在する、でも、それがどんななのかは地球人にはふつう、わからなくって、その裏側に月の住人の町があったとしても。あちら側の人間は、当たり前のこととしてそれを見ているのに。あれれ、何かおかしな話になってきた、ええと、何の話をしていたのだっけ?そうそう、天狗の話ね。
 天狗はどの街にもいるの。もしかしたら別の呼び方もあるかもしれない。でもあたしたちの周りの天狗遭遇経験者はみんなあれを天狗って呼んでるから。身長二メートルくらいで、すごく大きいし、力も強く、あちこち飛び回ることができるの。ものすごく視力が良いし、マントみたいなもので姿をすっかり隠すことができる。いつも姿を隠しているから、天狗に実際に遭遇してひどい目にあった人しか天狗を見たことがないの。
 天狗は街の景色がよく見えるところ、うん、たとえば、ビルとかテレビ塔の上とか、そういうところから街を見下ろし、まずターゲットを絞るの。ここで多くの人は対象外、ゆーくんもそのひとりね、になって、天狗の視界から消える。世の中には天狗に目を付けられやすい人間、というのがいて、あたしは特にその中でも目を付けられやすいみたい。天狗の遭遇仲間によく言われる、天狗遭遇経験者の会っていうのがあってね。そこで、君はダントツで狙われそうだから注意した方がいいって。命の危険だってあるのに、もう少し用心すべきだ、とくに一人で夜道を歩くのも危ないし、歩くスピードがゆっくりすぎるのもいけない、いざというときにたよりになる近しい友人がいないのもよくない、まず基本的な生活習慣を改めるべきだ、と脅迫まじりに警告されることだってあるの。もう、ほんとうにべきべき言う人ってきらい。その、天狗遭遇経験者の会の代表幹事のべきべきおじさんは、四十代のタクシードライバーで、十代の時に一度だけ天狗に襲われたって言ってたけど、本当なのかな。実は天狗の話は聞いたことがあるだけで、あの会に入ってくる若い女の人を狙ってるんじゃないかってあたしは思ってる、なんか粘っこい目でじろじろ脚を見てくるし、不必要に身体に触れてくるし、気持ち悪いの。ミニスカートだとかショートパンツといった服装もあるいは天狗の標的のなりやすさと関係しているかもしれない、だなんて。お前と天狗を一緒にするなっつーの、ばーかばーか。あと、ときどき新興宗教のパンフレット持ってきて、入信したら天狗に遭遇しなくなったからあなたもどうか、なんて言ってくる女の子もいるし、最近あの集まりどうかなあと思ってる。まあゆーくんには関係なかったね、どうでもいい話を長々としちゃってごめんなさい。
 あ、そうそう、天狗の話。どういうタイプが狙われやすいかって? だいたい分かるよ、あたし。まあ、何回も天狗に遭遇しているとだんだん天狗の気持ちが分かってくるものなの。男より女の方が目を付けられやすいけれど、そおねえ、若い男の子の天狗の遭遇経験者ってけっこう多かったりするから、性別はそれほど重要じゃないみたいね。それよりはまあ、若いってことの方がよほど重要。天狗は子どもが大好きだから。ときどき間違ってあたしみたいなちょっと歳を食った女に目を付けたりもするけど。ええ、見た目がかわいいのも条件じゃないかって?あははははははははは。
 ゆーくん、褒めてくれるのは嬉しいけれど、実はそれもあんまり関係がなかったり。むしろ、モデルみたいに美しかったり、それで人気者だったりする人には天狗は近寄らない。絶対に。たとえば、いま天狗が柱の影から学校の教室の風景を眺めつつターゲットを探しているとして、これから天狗が連れ去るのは、クラスの中で隅っこで本を読んでばかりで目立たない子、フケ臭くて陰気でいじめられたりしている子、常に何をしたらいいか分からなくてウロウロしていて助けを求めているように見える子、そのあたり。あたしも昔そんなだった。それかそもそも学校に行ってない子。運動ができて男子にもてて太陽のように明るくて美しくて快活なすばらしく洗練された野生動物みたいな女の子、いるでしょう?クラスの人気者タイプ。そういうのになんて何があっても手を出さないわけよ、なぜか。そういう魅力的な子が連れ去られた方が、なんというのか、こういうことを言っちゃいけないのかもしれないけれど、公平な気がするけれど、そうはならないの。でもまあ、世の中ってだいたい、そうなった方が公平な気がする、ってことの逆をいくものよね、まったく。チャンスが落ちてくるのはいつだってお金を持っている人のもと。そして貧乏人は賭け事でますます身持ちを崩す。
 天狗はまず標的がひとりになるのを待つの。さっきの話からも分かるように、天狗が狙うのはいつだって孤独を抱えた子。女の子が女となっていく、男の子が男となっていく、その流れからポツンと置いていかれて、ひとり左右を見渡しながら目を潤ませている子、どの群れにも長く属すことができず、ふらふらさまよって、ときどき群れから門前払いされて、困惑しきった顔をしている子、そんな子に天狗はゆっくりと後ろから近づいていくの。そして誰もいないところにさまよい出るのを待つ。天狗にとってはこんなことはワケないでしょうね。ビーズの中にまぎれたパチンコ玉を探すことよりも簡単よ。天狗にとってはその子が自分を誘っているようにさえ見えることでしょう。そんなことはあり得ないわけだけれど。
 その子が肩を叩かれて振り向くとそこに天狗がいるの。最初に遭遇したときはたいてい誰も声を上げることができないの、仮に声を上げても周りに誰もいないから意味がないけどね。というのは、なぜかそこは人々の群れから遠く、星が違うのかってくらい、離れた場所で、だから、逃げるにしても逃げ込む場所がないの。気がつけばそこはさっきまでいたはずの人間の世界じゃない、天狗の世界。すでに連れ去られているわけね。もう、この時になったらすべてが手遅れ、だからその子は、こうなる前にどこかの群れの中に入って、仲間の子とくだらないおしゃべりを延々と繰り返していればよかったの。そうしたらこんなことにはならなかったのに。
 天狗の世界には景色というものがないの。それにすぐ目隠しをされてしまうからどこに何があるのか全然分からない。感じることができるのは、天狗と自分の肉体とそれにぶつかる空気の流れだけ。肉体しか存在しない世界に放り込まれると、肉体というのは何もしなくても実にたくさんの音を出しているということに気づくの。友達と何か話をしているときは決して聞こえなかった肉体の音がする。フー、フーという天狗の吐息、自分のつばを飲み込む音、自分の鼻息、そして自分の靴が地面とこすり合う音、自分の歯がカチカチなる音、あと天狗の喉からなる唸り声のようなもの……あたしは、あの時何を見ていたのだろう、最初に天狗に会った時。天狗の姿を正視することができなかった気がする。記憶にあるのはその音だけ、あとはその後にやってくる儀式、生け贄にされるの。変な飲み物を飲まされて目隠しされているから何も分からない……熱いような痛いような、揺らされるような、形而上的かつ形而下的な痛み……。それはとても口では表現できなくって。一度死ぬような感覚とでもいえばいいのかな。身体の上を電車が通り抜けるような、身体の穴という穴に焼けた水銀を流し込まれるような。そのままショックで死んじゃった人もきっといる。そしてたぶん、世間では失踪者として扱われるの。あのねえ、あたしこうやって何でもないように話しているけど、天狗ってやっぱりおそろしいの。
 でも、そのとき、あたしと天狗の間には何かこう、親密さ、というものがあったような気がする。違うの、そうじゃないの、強制的に親密さの空間に押し込まれるという感覚、とでも言えばいいのかな。あたしの親は引っ越してばかりで、なんていうか、人と深く知り合う機会も、こうして、親以外の人間と距離を詰めることもまるでなかったの。だからすごく不思議な感覚だった。その不思議さは、恐怖とはまた別に、独立して存在していたわけ。強制的に味わされたものではあったけれど。少なくともあたしはそのときそれまでで一番孤独じゃなかった。燃え盛る火の前で木の台の上に横たわっているとき、不思議な高揚感があった。
 最初に天狗に遭遇した時、あたしはお祭りの後の夜の神社にいた。親とはぐれたというよりは、賑やかなお祭りから帰りたくなくって親からわざと離れたような感じ。お祭りが終わり、出店の灯りもぽつぽつと消え始め、風景がだんだん寂しくなっていく。あたしは、どういうわけかお参りしたくなって、小さなほこらの前に立っていた。そしたら、天狗に肩を叩かれたの。
 気がつけばほこらの前であたしは倒れてた。そして、顔についた泥をハンカチで拭いて、口の中に入った砂粒を吐き出しながら、あたし、これはきっと罰なのかもしれないと思った。良い子に育たなかった罰。ひとりで夜のお祭りを楽しみたいなんて、小さい娘にあるまじき願いを持ったことに対する罰。ちゃんとした大人になれないことに対する罰。健やかで明るくてみんなと仲良くできる子だったら、きっとこんなことにはならなかったんだって。その後も、天狗に遭遇するたびに、自分が悪いことをしたからだ、と思ってた。ふつうに男の子に恋をして、結婚を考えたりして、子どもをうみたいと思ったりして、そんなふうにふつうに生きることすらできないで、みんなの前では笑っているふりをして、そのくせ、嘘をついたり、隠し事をしたり、陰険なことをしたり、怠け者だったり。だから未だに天狗に狙われるのかもしれない。痛みを味わってる時、いつもあたしはごめんなさいって思ってる。ふつうに、倫理的に、まじめに生きられなくてごめんなさい、っていうか、そもそもそれらのふつうとか倫理的とかまじめとかいう言葉の内実すら知らないでごめんなさい、ごめんなさいって。
 天狗の顔ねえ、あたし実は天狗の顔の細かいところって全然覚えられないの。あたし人間の顔は結構覚えるの得意なのに。だから、今回遭遇した天狗が、こないだのと同じなのかそうじゃないのかすら分からない。みんな同じ天狗に見えてしまう。だいたい三度めくらい、いったん天狗に遭遇してしまったらもうどうしようもないということを理解しだしてから、あたしは天狗の顔から目をそらさずにじっと睨みつけてやるようになったんだけど、それでも特徴を覚えられない。四角い顔と丸い顔があるから、天狗はこの世界に一匹だけじゃないということくらいね、せいぜい分かるのは。天狗の顔がそれぞれ特徴豊かだったら、もしかするともっと親しみやすいかもしれない。恋だってできるかも。こういうことを言うから天狗遭遇経験者の会で、だから君はダメなんだ、とか、天狗に対する意識が甘すぎる、とか言われちゃうんだけどね。、あの、タクシードライバーなんか昔左翼だったから、「自己批判するべきだ」なんて言ってくるし。ウケる。あほらしい。
 こないだ会った天狗の顔も全然覚えてないな。ええと、一ヶ月ほど前だったっけ。自慢じゃないけれど、あたしくらいに天狗に遭遇していると、だいぶん根性が据わってきて。こないだなんか天狗に話しかけたの。はじめて!昔なら考えられないこと。子どもの頃は、これから何が起こるか分からないけれど確実におそろしいことが起こるということだけは分かる、そんな状態で、ガタガタ震えていたばかりだったから。ちなみに、この話をしたのはゆーくんがはじめて。たぶん絶対ひどい言われようをするから、天狗の遭遇仲間にはこの話してないの。下手すると会から除名されちゃうかもしれないし。かといって、天狗を知らない人に話しかけても、信じてくれないし。ゆーくんみたいな変わり者なら別だけどね。
 それで、お久しぶりかな?それとも、はじめまして?ってあたしは言ってやったの。強制された親密さをあえて引き受けることで、恐怖も罪もまぎれる気がしたのかも。もちろん、これからひどい目に遭わされるのは分かっていたから怖かったけれど、もうこちらから何をしても無駄だから、覚悟を決めるしかないわけ。あたしはごくんと唾を飲み込み、天狗はフー、フーと息をついていた。いつもの肉体が息づく音が聞こえてきた。天狗には日本語はやはり通じないのかしら、と思っていたら、驚いたことに天狗が喋ったの。……人がわれわれに話しかけるものではない。 あたしはどういうわけか嬉しくなった。そして目の前にいる二メートルくらいの天狗に親しみを持てるようになった。想像してみて。これまでは、フー、フー息を立てて、喉から猛犬みたいな音をたててただけなのに!言葉がわかるのね、とあたしが言うと、われわれの言葉は分かる、って言うの。まるでちぐはぐなやり取りじゃない?あたしは確かに日本語を喋っているのに。
 天狗の言葉であたしが天狗に話しかけてるって天狗は言うの。馬鹿なこと言わないで、とあたしが言うと、お前は既にわれわれになりつつある、って。その後、またあたしは天狗に生け贄にされたけれど、それまでよりずっと痛くなくなったの。あたし、天狗の世界から何とか帰された時はいつだってボロボロで歩くのがやっとみたいな感じだったけれど、こないだはずいぶん余力があって、最後に天狗に手を振る余裕すらあった。
 それにしてもねえ、ゆーくん、あたしが天狗になりつつあるって、そんなことあるわけないと思わない?だってちゃんと日本語喋ってるし、人間の顔をしているし。そう思うでしょ?いい加減なこと言うよねえ、あの天狗も。
 ゆーくん、今日ははじめて会えたのにこんな話ができて嬉しい。一緒に次の店行こうよ。まだまだ夜は長いもんね!